大山慶さんの作品

<前回の続き>
 遅くなったけれど、上映作品の中から好きな作品の内容を紹介。


・「ゆきちゃん」
 主人公の視点でミミズを眺めているアップで始まる。ミミズのシワは人間の指の関節のシワがコラージュされている。
 ミミズを枝で執拗につっつく様子が描かれる。ミミズは身をよじり、収縮し、持ち上げて太陽の光に透かされ、いろいろな様を見せる。
 生命の不思議と躍動をその手中にして、主人公は静かに興奮しているのだろう、じっと観察し続ける。
 このまま見つめ続けるのかと思いきや、主人公はふと大人に呼ばれて、ある家に入っていく。
 白い屋内は清潔だがどこか冷え冷えとかんじられ、家中の大人たちは誰も皆うなだれている。
 更に中へ突き進むと床の間に通され、そこには血の気のひいた女の子が横たわっている。どうやら主人公の身近な存在だったらしい。タイトルの「ゆきちゃん」そのこなのだろう。
 母親らしき人が泣きそうな笑顔で小さく口を動かす(声は聞こえないが「なでてあげて」「さわってあげて」といっているよう)。
 主人公は女の子の額にそっと手をのせてなでるが、もはやその子は目覚めない。死んでいるのだ。
 主人公は今ミミズの生に感心したばかりなのに、つぎの瞬間には身近な人間の死を、同じその手で触れる。
 残酷な展開だが、この短い時間の中に、命のぬくもりとはかなさを見事に凝縮して、肌で感じさせられる作品。
 (「TOKYO LOOP」収録、DVDが行方不明で覚えている範囲でかきました、すみません)
 

TOKYO LOOP トーキョー・ループ [DVD]

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・「HAND SOAP
 壁の前に立っている、目鼻のちんまりとした、にきび面の少年のバストアップで始まる(詰襟を着ているので中学生と思しき)。
 彼を掠めて、ぼとり、ぼとり、と何かが投げつけられていく。その「何か」が打ち付けられた跡には赤いシミが残る。視点がひいていき、彼の全身がうつると、投げつけられ、足元に落ちた「何か」は、手足をダランと伸ばしたカエルだということがわかる。少年はいじめられているようだ。少年は自分に「大丈夫、平気、自分も楽しんでやっているんだ」と嘯くように、こわばった顔の表情を不器用に解いて、ニヤっと笑って見せる、しかしその瞬間またカエルが投げつけられる。少年には当たりはしないものの、壁に激突したカエルの返り血が少年の顔に飛び散るのだった。
 少年はいじめっこたちから開放されると、水場で丁寧に手を洗う。何もなかった、と先ほどのできごとをすべて拭い去るように、丹念に。
 彼をとり囲む世界は、彼を閉じ込めるように聳え立った、巨大な集合住宅地。
 少年はそのどこかにあるのだろう自宅へ帰り、彼と同じ幸薄そうな、表情の乏しい家族たちと共に(いつもそうしているのであろう)淡々とした夜をすごす。
 TVを見ながら黙々と済まされる夕食、それを終えると各自の部屋にひきこもる。
 彼より少し上と見られるセーラー服姿の姉は、好きな人に告白しようとしているらしいが、思いつめた表情で受話器をとっては戻し、ダイヤルを回しては切り。
 両親(大柄で横柄に見える母と貧弱な父)は無表情のまま義務的なセックスをしている。母は父に突かれながら、踏切の前で立ちすくむ映像を思い出している。それは彼女の幼少期の思い出なのか、それとも、自分がいつか自殺しようとした想い出なのか。どちらにせよ、その一瞬に彼女の諦念が表される。父は抱いた母ののほくろをなめる。まるで、「これが自分の人生をかけて得たものだ・自分は愛する妻を持って幸せなのだ」と言い聞かせるように。
 姉はこっそりその様子を観察しているが、相変わらず表情に変化はない。既に何度も両親のそんな姿を目にしていて、本当は美しい恋や愛の幻想から覚めてしまっているのかもしれない。それでも、自分はこうはならない、素敵な恋をしてこの世界から逃げ出すのだ、という決心が受話器を握らせているのかもしれない。
 少年は、ストーブの赤い光だけがほのかに刺す薄暗い部屋で理科の教科書を広げ、カエルの解剖図に自分の顔を書き込む。今日のいじめられた情景を思い出しながら。そこで彼の記憶の中のいじめっ子たちがうつされるが、カエルを手にした詰襟の少年3人の頭は、いびつな肉塊と化している、少年の恐怖・さげすみを通してそう見える、というように。そのあと、ハンドソープをつけて丹念に手を洗ったシーンも甦る。ポンプからしたたる白い石鹸液。それが彼のいやな思いを洗い落としてくれるのだ。
 その後少年は風呂に入る。包茎の性器をみつめながら湯船につかる。布団に入ると自慰をする(はっきりとは描かれないが以下の描写で明らかに象徴されている:少年のくるまった布団の隙間から肌色の管がにょっきり突き出され、まるで産卵する亀の卵管のように、白い球体を滴らせる。白い球体は床に落とされると、解剖図の、彼が顔を書き込んだカエルの形になる。カエルは立ち上がると、夕食中彼が見ていたテレビの歌番組のアイドルを真似て、コケティッシュに歌い踊り出す〈これがオカズなんだろうね〉。振り付けも完璧に一曲歌いきるやカエルは白い液体に戻っていく)思春期ならではの青臭い性欲と、今日体験した恐怖や自己嫌悪が入り混じって発せられたこの精液が、少年の行き場のない思いを象徴している。
 そんなやるせない夜が明けた朝、外には雪が降っている。集合住宅は相変わらず、巨大な壁のように聳え立っているが、清潔な白さに包まれて清々しく見える。少年は自分の部屋の窓から、静かにそれを見つめている。フィルムはそこで終わる。
 少年の日々は、きっとまた同じことの繰り返しなのだろう、と想像できる。しかし、窓の外の建物(彼を取り囲む世界)は変わらずとも、季節はめぐり、新しい表情を見せた風景に「少し何かが変わるかもしれない」という清らかな希望をほのかに感じ、見終えるのである。

    *   *   *

  実写で以前撮った「波」という作品(小さな部屋で静かに寝息をたて、ひとり眠る女。その呼吸が、どこからか聞こえる波の音を重なり、女に海を見出した魚たちは、彼女の体めがけて集まりだす…)も見られてよかった。本人は「女性器がバーンと写る作品なんで、そういうの苦手な方はすみません!」と前置きで謝って」いらしたが。いやらしくなくて不気味だけどきれいだった。それでなるほど、とおもったのが→トークのときにおっしゃってたが、学生時代はAVのモザイクかけるバイトしてたとか…(笑 なるほど、見慣れた先の、おおらかにあけっぴろげな性の描写は、こういう経験からもきてるのかな、と垣間見れておもしろかった。なんかあっけらかんとしてて、かわいいんですよね。大山さんの作品の裸。
 その他山村浩二さんとの対談中「自分の絵はグロテスクだといわれるけど、そう意識して描こうとしてるんじゃない、あくまでも美しいものを描こうと思っているんですよ」と言っていたのが印象的だった。私も最初は「グロ・・・」と思ってしまったけど(笑)、先述したように、ジンワリと作家の伝えんとする美しさが伝わってきて、この絵をずっと見ていたい、という気にさせられる。彼のしっかりした独自の視点が、この世界観を支えているのだろう。それを大事にこれからも作品作りに励んで頂きたい。
 詳しくはアップリンクのHPに対談全文あるので、そちらでどうぞ。


 次回は「放課後」という作品らしい。予告編をちらっとみたのだが、中学生が描いたような、個性も画力もバランバランなにぎやかな絵がメタモルフォーゼしてゆき、部活する子・居残りする子・それぞれの放課後を描き出すという、これまでより動きが多いコミカルなつくりになるようだ。タッチがぜんぜん違ったので、この作家さんの新しい一面として、とても楽しみにしている。