「ラマンチャ」+「鏡の国のアリス」?  映画『Drパルナサスの鏡』感想

 (公式HP
 ※以下の内容は多少ネタバレを含みますので
まだ未見で楽しみになさっている方はご覧になりませんよう。



 自分で自分の仕掛けた「物語」に溺れてしまった男たちのお話。

 
ドクター・パルナサスはもともと、僧だった頃は「物語が語られ続けなければ世界は崩壊する」と信じる宗派にいて(すでにこの設定が宗教への皮肉なのでは・真偽はともかく聖典に書かれた奇跡を極端に信じたがる信者の心理)、想像こそ人間を豊かにすると信じ、その精神を布教しようとしていた。
 しかし、悪魔と出会ってからは、布教を大儀名分としながら、どちらが各自の教えで弟子を獲得できるか「賭け」をやめられなくなる。
 やがて自分が不死の苦痛から開放されるために娘を賭けた上その勝負に負けて、娘を奪いにくる悪魔を恐れながら策も講じず、見向きもされなくなった古めかしいショーを抱え、酒に溺れている。

 またパルナサスの娘が偶然救った男・テリーは口がうまく、人々を魅了する物語(嘘)を紡ぐ才能には秀でていたが、その力を詐欺に使って富と名声を得たはいいが、マフィア・メディアに追われる身である。

 「物語」は、やがて実現したい「夢」となって人間に希望を与える。しかしその希望も、いつまでも現実につなぎあわすことができなければ、その場しのぎの利己なでまかせにすぎなかった場合は、いくら重ねても、いずれ脆い「嘘」となって決壊する。
 パルナサスやテリーは、自分で自分の物語におぼれて道を見失った現代のドン・キホーテとして描かれる。

 また、パルナサスの美しく聡明な娘・ヴァレンティーナは純粋で、何が起こっても最善を尽くし対応しようとするが、勝手な男たち(真実を語らず自分を束縛する父や、口は上手いが素性をなかなか見せぬトニー、トニーの才気に嫉妬してあらぬ行動に出る同行の旅芸人アントン)に振り回され、「みんなうそつき」「何が本当なの?」と困惑する。ここがアリス的だし、ラマンチャで言えば男たちと現実の境界線になるドルシネア的。

 誰からも認められるためには手段を問わない異常な上昇志向など、現代社会へのあらゆるアイロニーに満ちた物語。
 圧巻の映像美を用いながら、夢見心地・おためごかしでは終わらせない。
 「ローズ・イン・タイドランド」と未完の「ラマンチャ」をうまく融合させたのではないかと思われる、テリー・ギリアム監督らしい作品に思えた。
 また、イマジネーションの力を信じながら、ファンタジー=不思議・かわいいという安直な感動では終わってほしくない、そういうジレンマの中で、どこまで他人に伝えることができるのかを試し続けている監督自身の物語でもあるのかもしれないと感じた(まだ諸インタビュー読んでないけどそう思っていてほしい。
 

  ほか気になったこと おもったこと
 ・俳優の死で仕方なかったのは分かるけど「鏡の中では顔が変わってしまう」という注釈として最初に鏡に入った男の顔が変わるシーンは、なんだか唐突すぎて、ちょっと残念だった
 ・パルナサス博士の部屋着が、ローズのお父さんが着てたように、また同じく、日本の半纏だった
 ・ユマサーマン サラポーリー リリーコール の古典的な顔立ち…ティムバートンのキャスティングとかぶりそうでかぶらない趣味だよな、と。

大山慶さんの作品

<前回の続き>
 遅くなったけれど、上映作品の中から好きな作品の内容を紹介。


・「ゆきちゃん」
 主人公の視点でミミズを眺めているアップで始まる。ミミズのシワは人間の指の関節のシワがコラージュされている。
 ミミズを枝で執拗につっつく様子が描かれる。ミミズは身をよじり、収縮し、持ち上げて太陽の光に透かされ、いろいろな様を見せる。
 生命の不思議と躍動をその手中にして、主人公は静かに興奮しているのだろう、じっと観察し続ける。
 このまま見つめ続けるのかと思いきや、主人公はふと大人に呼ばれて、ある家に入っていく。
 白い屋内は清潔だがどこか冷え冷えとかんじられ、家中の大人たちは誰も皆うなだれている。
 更に中へ突き進むと床の間に通され、そこには血の気のひいた女の子が横たわっている。どうやら主人公の身近な存在だったらしい。タイトルの「ゆきちゃん」そのこなのだろう。
 母親らしき人が泣きそうな笑顔で小さく口を動かす(声は聞こえないが「なでてあげて」「さわってあげて」といっているよう)。
 主人公は女の子の額にそっと手をのせてなでるが、もはやその子は目覚めない。死んでいるのだ。
 主人公は今ミミズの生に感心したばかりなのに、つぎの瞬間には身近な人間の死を、同じその手で触れる。
 残酷な展開だが、この短い時間の中に、命のぬくもりとはかなさを見事に凝縮して、肌で感じさせられる作品。
 (「TOKYO LOOP」収録、DVDが行方不明で覚えている範囲でかきました、すみません)
 

TOKYO LOOP トーキョー・ループ [DVD]

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・「HAND SOAP
 壁の前に立っている、目鼻のちんまりとした、にきび面の少年のバストアップで始まる(詰襟を着ているので中学生と思しき)。
 彼を掠めて、ぼとり、ぼとり、と何かが投げつけられていく。その「何か」が打ち付けられた跡には赤いシミが残る。視点がひいていき、彼の全身がうつると、投げつけられ、足元に落ちた「何か」は、手足をダランと伸ばしたカエルだということがわかる。少年はいじめられているようだ。少年は自分に「大丈夫、平気、自分も楽しんでやっているんだ」と嘯くように、こわばった顔の表情を不器用に解いて、ニヤっと笑って見せる、しかしその瞬間またカエルが投げつけられる。少年には当たりはしないものの、壁に激突したカエルの返り血が少年の顔に飛び散るのだった。
 少年はいじめっこたちから開放されると、水場で丁寧に手を洗う。何もなかった、と先ほどのできごとをすべて拭い去るように、丹念に。
 彼をとり囲む世界は、彼を閉じ込めるように聳え立った、巨大な集合住宅地。
 少年はそのどこかにあるのだろう自宅へ帰り、彼と同じ幸薄そうな、表情の乏しい家族たちと共に(いつもそうしているのであろう)淡々とした夜をすごす。
 TVを見ながら黙々と済まされる夕食、それを終えると各自の部屋にひきこもる。
 彼より少し上と見られるセーラー服姿の姉は、好きな人に告白しようとしているらしいが、思いつめた表情で受話器をとっては戻し、ダイヤルを回しては切り。
 両親(大柄で横柄に見える母と貧弱な父)は無表情のまま義務的なセックスをしている。母は父に突かれながら、踏切の前で立ちすくむ映像を思い出している。それは彼女の幼少期の思い出なのか、それとも、自分がいつか自殺しようとした想い出なのか。どちらにせよ、その一瞬に彼女の諦念が表される。父は抱いた母ののほくろをなめる。まるで、「これが自分の人生をかけて得たものだ・自分は愛する妻を持って幸せなのだ」と言い聞かせるように。
 姉はこっそりその様子を観察しているが、相変わらず表情に変化はない。既に何度も両親のそんな姿を目にしていて、本当は美しい恋や愛の幻想から覚めてしまっているのかもしれない。それでも、自分はこうはならない、素敵な恋をしてこの世界から逃げ出すのだ、という決心が受話器を握らせているのかもしれない。
 少年は、ストーブの赤い光だけがほのかに刺す薄暗い部屋で理科の教科書を広げ、カエルの解剖図に自分の顔を書き込む。今日のいじめられた情景を思い出しながら。そこで彼の記憶の中のいじめっ子たちがうつされるが、カエルを手にした詰襟の少年3人の頭は、いびつな肉塊と化している、少年の恐怖・さげすみを通してそう見える、というように。そのあと、ハンドソープをつけて丹念に手を洗ったシーンも甦る。ポンプからしたたる白い石鹸液。それが彼のいやな思いを洗い落としてくれるのだ。
 その後少年は風呂に入る。包茎の性器をみつめながら湯船につかる。布団に入ると自慰をする(はっきりとは描かれないが以下の描写で明らかに象徴されている:少年のくるまった布団の隙間から肌色の管がにょっきり突き出され、まるで産卵する亀の卵管のように、白い球体を滴らせる。白い球体は床に落とされると、解剖図の、彼が顔を書き込んだカエルの形になる。カエルは立ち上がると、夕食中彼が見ていたテレビの歌番組のアイドルを真似て、コケティッシュに歌い踊り出す〈これがオカズなんだろうね〉。振り付けも完璧に一曲歌いきるやカエルは白い液体に戻っていく)思春期ならではの青臭い性欲と、今日体験した恐怖や自己嫌悪が入り混じって発せられたこの精液が、少年の行き場のない思いを象徴している。
 そんなやるせない夜が明けた朝、外には雪が降っている。集合住宅は相変わらず、巨大な壁のように聳え立っているが、清潔な白さに包まれて清々しく見える。少年は自分の部屋の窓から、静かにそれを見つめている。フィルムはそこで終わる。
 少年の日々は、きっとまた同じことの繰り返しなのだろう、と想像できる。しかし、窓の外の建物(彼を取り囲む世界)は変わらずとも、季節はめぐり、新しい表情を見せた風景に「少し何かが変わるかもしれない」という清らかな希望をほのかに感じ、見終えるのである。

    *   *   *

  実写で以前撮った「波」という作品(小さな部屋で静かに寝息をたて、ひとり眠る女。その呼吸が、どこからか聞こえる波の音を重なり、女に海を見出した魚たちは、彼女の体めがけて集まりだす…)も見られてよかった。本人は「女性器がバーンと写る作品なんで、そういうの苦手な方はすみません!」と前置きで謝って」いらしたが。いやらしくなくて不気味だけどきれいだった。それでなるほど、とおもったのが→トークのときにおっしゃってたが、学生時代はAVのモザイクかけるバイトしてたとか…(笑 なるほど、見慣れた先の、おおらかにあけっぴろげな性の描写は、こういう経験からもきてるのかな、と垣間見れておもしろかった。なんかあっけらかんとしてて、かわいいんですよね。大山さんの作品の裸。
 その他山村浩二さんとの対談中「自分の絵はグロテスクだといわれるけど、そう意識して描こうとしてるんじゃない、あくまでも美しいものを描こうと思っているんですよ」と言っていたのが印象的だった。私も最初は「グロ・・・」と思ってしまったけど(笑)、先述したように、ジンワリと作家の伝えんとする美しさが伝わってきて、この絵をずっと見ていたい、という気にさせられる。彼のしっかりした独自の視点が、この世界観を支えているのだろう。それを大事にこれからも作品作りに励んで頂きたい。
 詳しくはアップリンクのHPに対談全文あるので、そちらでどうぞ。


 次回は「放課後」という作品らしい。予告編をちらっとみたのだが、中学生が描いたような、個性も画力もバランバランなにぎやかな絵がメタモルフォーゼしてゆき、部活する子・居残りする子・それぞれの放課後を描き出すという、これまでより動きが多いコミカルなつくりになるようだ。タッチがぜんぜん違ったので、この作家さんの新しい一面として、とても楽しみにしている。

「イングロリアス・バスターズ」を見たのだった

11/23
悔しい思いをした後に見たこともあって、痛快な復讐劇。


 ずっと顔をしかめてるブラピがブロンソンみたいだった。
 男も女も思いっきり張り合う、知恵・度胸比べがカッコよかった。敵が徹底的にいやらしくて、張り合いがあるのも最高だった。
 若いイケメンの自意識過剰な愚かさを、これでもかと引っ張り出し、対しておっさんたちは徹底的に賢く渋く描いていた・笑
            ↑
   (あとでインタビュー読んだら、監督は「いい奴」として演出してたらしい…うそん。)


 英語・フランス語・ドイツ語入り乱れる脚本で、顔はみな西洋人で似たりよったりだが、言葉の壁で意思疎通できない恐怖/文化の違いを浮き立たせる効果としてしっかり使っていた。登場人物達があえてセリフで「フランス語は不得意なんでここからは英語でしゃべろう」と切り替えるシーンがあって、
 「役者に不得意な言葉を長々しゃべらせないように、気を使いながらギャグにしたのかな?」
と笑って見ていたら、それがそのシーンの重要なトリックだったりして驚いた。

 失敗が重なり、仲間を失いつつも追行される映画館大作戦〜エンディングまでの、偶然と執念の絡まった壮大な見事な取りまとめ方にゾクゾクした。
 残虐な事件が起こるたび「現実が映画をこえている」と悲観される昨今、
 「いーや、まだまだ映画は現実を『楽しく』超えられんぞ!」
というタランティーノの挑発のような感じもした。

   *   *

 過去・ことに戦争や大きな事件の話になると、たしかにどうしてもシリアスになってしまって、史実史実と神経質になりがちだけど、フィクションだと自覚してつくっているんだからそれはそれとして、作り物のダイナミズムとして、楽しむ余裕があってもいいじゃない。私も戦争はもちろん反対ですよ、ただ、また違う過去があれば、現在も変わっていたかもしれない、と考え直す機械にもなって面白いと思う。想像と現実の区別がはっきり付く健全な人なら、そう楽しめるのでは。

 全額バックキャンペーンやってたからなのか、途中で退席して帰ってこない人が4、5人いた(一番後ろの席にいたから動向がよく見えた)。
 前の席の年配の方は帰りはしなかったものの、しきりに首をかしげ、エンドロール流れると同時に跳ね起きて頭を横に振りながら出て行った…。
 人それぞれ色々見方はあるでしょうし、その方の心中はわかりようもないけれど…もし
 「戦争を茶化してる!こんな主題、認めない!」
と見えてしまったのか…もし、どうしてもそう思えてしまう方がいらっしゃるなら…
 「バスターズも執拗に残酷だし、どんなに被害被っても、復讐したら『おあいこ』。どちらを賛美しているわけでもなく、戦争に正義派ない。」
 という例として描いているものと受け取ればいいのでは。
 こんなエクスキューズをいちいち考えてしまう自分も規制慣れしてしまってる気がして、なんか悲しくなるけど、タランティーノもどのキャラも白黒つけない描き方にした、といってましたし。
 だって、これがもし戦争賞賛映画だったとしても、あの世界に生きたいと思わないでしょ?いつ殺されるとも知れない、あの緊迫した空気を耐え抜ける?生きながらバットで滅多うちにされて頭の皮はがれていいの?と。無理なら、スリルは映画に任せて、ほんとに戦争なんかやろうと思うんじゃねえぞ!---という、逆説的な平和のメッセージと考えればいいんじゃないでしょうか!!!

大山慶のアニメーション@アップリンクファクトリー

 もうひと月前になりますか。
 10/23にアップリンクファクトリーでのイベント「大山慶のアニメーション」に参加。
 

 http://www.uplink.co.jp/factory/log/003222.php

 今回は2000年から2008年に制作された8作品が上映された。
 大山さんは東京造形大出身・現在31歳のアニメーション作家。
 卒業制作の「診療室」が学生CGコンテスト最優秀賞受賞したのをはじめとして、その個性を認められ、カンヌ映画祭の監督週間で上映されるなど海外からも注目を集めていらっしゃる。

 絵柄は、一見グロテスク。目鼻が異様に小さかったり肥満だったり手足が短かったり歯並びが悪かったり、極端にデフォルメされた登場人物たち。最初は
 「うわ…」
と思うが、嫌悪は不思議と広がらず、見ていくうちに逆に
 「まあ、平均的に、一般の人間ってそんなバービーみたいじゃないし、よくみたらこんな感じよね」
と、冷静に思わせれる、その正直な不完全さが憎めず、次第にかわいく見えてくる不思議な造形。
 ぷるぷるとブレて凹凸を感じさせる不思議な色彩は、作家本人が自分の皮膚をスキャンしたものをコラージュしているという。

 画面は主に正面を切って、主人公の目から見つめられたようなアングル。
 思春期の視点で、自分と対峙する世界をじっと見つめ、観察するような。動きに派手さはないが、前述のように色彩のブレや質感、なまめかしい細かな動作から、自分がその場にいるような感覚を呼び起こされる。自身の肉が裂け染み出る血、他者を傷つけた痛み・傷つけられた痛み、自分でどうすることもできず救えなかった他者の命への哀れみ、失われていく自分の命のはかなさ。描かれるのは、どちらかといえば前向きではない感情を喚起させるのだけど、決して暗くなく、正確にそれら痛みを受け止めた清々した潔さがある。
 

 …イベントの内容はまた次に改めます。

 

最近見た映画

 以前町山智浩さんがネットラジオで紹介してたのを聞いて見た映画。本国ではロードショー公開されずお蔵入りになってたらしい(本当すぎるから?これぞほんとのホラーだからなのか?)DVDリリース待ってすぐ見た。
 定期的に見直してしまう名作。
 「ビーバス&バッドヘッド」のマイク・ジャッジ監督による実写映画。
  都会住まいのインテリ夫婦は家族計画きっちりやって仕事や文化行事に勤しんでいる現代、反面田舎のおバカたちはデキ婚・浮気を繰り返し子供バンバン産んで、その子供も同じような人生繰り返して(ティーンでデキ婚、ヤリまくり子沢山…)ネズミ算式に増殖、26世紀になるころにはインテリ人間は滅びてバカばっかになっていた…という、冗談で終わりそうにないおバカSF。

 冴えない軍人の男がコールドスリープの実験に駆り出されるが、実験をの主任の不正がバレてお縄・実験自体が忘れられて幾年月。男が目覚めたらそこは26世紀だった。
 26世紀の人類の楽しみは下ネタ番組ばかりのケーブルテレビ、それをトイレつきの椅子に座ってぼーっとながめて暮らす。スラングとギャル語しか使えない。本は廃れ、ゴシップ雑誌とエロ雑誌のみ。巨大企業のロゴマークの入った服(一見ルイヴィトンみたいに見えるけど原色・ラメラメで、よく見たら「ウォールマート」とか「ゲートレード」のロゴ)を着て企業から金をもらう人々は、これまた単純にコマーシャルに踊らされ、それを簡単に支持するもんだから、ファーストフードと激安スーパーマーケット企業が社会を牛耳り政治は機能していない。考える人は「まじめぶりやがってキメー言葉使ってんじゃねーよ、カマが」とバカにされる。
 考えないから物事の由来とか知らない。先祖が開発してきたシステムをなんとなーく使って、なんとか食物つくったりテレビ流したりできているけど、故障したら治せない。廃棄物の処理方法もしらないからごみの山がビルより高くそこかしこ、植物の育て方もわからないから、スポーツドリンク万能薬だと思い込んで畑にまで撒いて、土が塩分でだめになって不毛地帯と化している(金かけたキャストでドラマ「不毛地帯」やるより、ほんとこっちの不毛地帯になる可能性を危惧した啓発番組作ったほうがいいよね)

 自分もまだマシと思っていたが、「電解質」説明できず植物を一から育てられないことに恐怖覚えた。勉強はだいじ…。
 日曜ロード−ショーとかテレビで大々的に流してほしいです。

OLDE WORLDE 「time and velocity」

time and velocity

time and velocity

 沼田壮平さんの1人ユニットの初のメジャーアルバム。
 沼田さんのライブはLuminous Orange主宰のライブでゲスト参加しているのを偶然見て好きになり、以来そのとき購入した自主制作CD(アコギ1本で演奏している)を愛聴していた。思春期の女の子と聞き紛うハスキーな高音の声と素朴なギター演奏が、細やかに展開するズバ抜けたセンスのメロディと相まって素敵だったのだが、このCDではバンド編成で演奏されており、音を厚くしたアレンジでもかっこよくできる方なんだな、と感心した。
 これまでのメロディに忠実な歌い方から一変、声を高低強弱自由に、楽器のように曲ごとに使いわけているのも楽しい。特別な目新しい演奏法を使っているわけでは決してないギターポップで懐かしささえかんじるのだが、先述したとおり、細やかで心のひだをくすぐられるようなメロディには終始ウキウキさせられ、その展開力に新しさを感じる。
 物憂げなオープニングやキャッチーな4曲目が特に気に入った。

OLDE WORLDE
http://oldeworldemap.com/index.html
http://www.myspace.com/oldeworldemap

ルイス・ブニュエル監督 「エル」(1952年)

 

 主人公は、周囲には信心深いまじめなカトリック教徒と知られながら、内には異常なほどの独占欲と傲慢さを隠し持つ長者の男。
 ある日友人の恋人に一目ぼれし、熱烈なアプローチでモノにするが、その独占欲からの被害妄想で妻にあらぬ疑いを掛け、自分自身も嫉妬に狂わされていく。

 ルイス・ブニュエルの、やるかたない怒りと狂気が噴出した瞬間の徹底的な描写に驚く。
 思い出されるのは「黄金時代」のバイオリンをめちゃくちゃに潰す、いたいけな子犬を蹴り上げる、子供を撃つシーン。
 
 この作品で印象的だったのが以下のシーン

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 仕事にも行き詰まり、妻にも別れを切り出され参った男は「自分の好きな場所なのだ」と、妻を連れ出し街中の鐘塔へ登る。
 足元の人々を見下し

男:「人間共がいる。ここからだと本性が見える。地を這いずる蛆虫だ。足で踏んづけたい」
妻:「何言うの それは利己主義よ」
男:「利己主義は高貴な魂の本質なんだ。私は人間を軽蔑している。私が神なら人間を許さない。」

 (妻、その言い分にあきれ男の傍を離れ、窓際へ向かう)
男:「グロリア」
妻:「何なの?」
男:「2日人きりだね。
(妻にグっと近寄り、ロマンチックな言葉でもかけるのかと思いきや)人に邪魔されず君を罰せられる。首を絞めたらどうする、突き落としたら?(妻を押し倒し、本当に首に手をかけ)大声を出すな!端まで押していき、突き落とし、地面に当たって死ぬのを見るんだ」
 (妻、必死に男の腕をすり抜け、一人塔を駆け下りる)
男:「グロリア!怖がるな、冗談だ。戻っておいで!私にも人間共が必要なんだ!」

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 男は自分が「正しい」と思ってやっていることは、他人にも正しく作用しているのだと思い込んで(思い込みたがって)いる。自分のわがままに他人が迷惑を被っているとは思いもしない。それどころか、自分の行動を理解しない周囲こそ非礼なのだと非難する。
 この「正しいと信じて行った」という歪んだ一途さのあざといこと。
 信仰心のある人だから、ほんとはそんなに悪い人じゃないんじゃないか、と他人に思わせ非難しにくくさせる(妻もそれでなかなか別れられなかった。)しかし自分の正義と思い通りにいかない現実の間で男は所在をなくして自己喪失してしまう。

 現代のピュア信仰じゃないけど、なにかを信じてがんばってるひとは美しい、と見たがる世の中の愚かさと、神への信仰を自己都合とすり替え正義を語る人間のわがままさをくっきりと浮き彫りにした強烈な作品だった。ひげはやして、ピッチリ身なり整え、威厳あるかに見えた主人公が、妻の視点と共にどんどん崩れていく過程がおもしろかった「こんな奴だったの?!」っていう。しかし、大仰に取り乱す主人公のおっさん、悪態つくときは思いっきりやり遂げる大きい子供みたいな姿、たしかになんだか憎めない。
 アールヌーボー様式の男の館のセットが素敵だった。