Return to Oz

 よっぽど現実逃避したいからなのでしょうか、幼い頃見た映画の収集が止まらない。今日は「オズ(Return to Oz)」(1985年)中古ビデオ入手。内容は「オズの魔法使い」の後日談。


悪い魔女を退治しエメラルドの都から帰ってきたものの、奇怪な探検談ばかり話すので気が狂ったかと思われ、精神病院に入れられたドロシー。機械治療を受けているところを謎の少女に助けられ、嵐の夜脱出。川をわたろうとしておぼれ、目を開けたら魔法の国に戻っている。しかし、救ったはずの魔法の国はすべてが石に変えられ、廃墟と化している。美人の首を刈ってはとっかえひっかえ自分の首と挿げ替えている魔女やその手先・四肢車輪男達など、新たな悪者達から都を救うべくドロシーの新たな冒険が始まる。

 実はまだ見直してない。たしかそういう筋書きの特撮ファンタジー映画。母がこの映画が好きで、我が家では1話目よりこっちをよく見ていたので、自分で本を読むようになるまでこれが「オズ」の本筋だと思っていた。ドロシーは本当は狂っていて、虚言を繰り返すうちにたまたま魔法の国へ行けたのだと思っていた。

 子どもだったからだろうが、特撮が凝っていて本気で怖かった。出てくるキャラクターは子ども向けとはいえない毒を含んだ造型で敵か見方かわからなかったり、どうしたら石にかえられた仲間を救えるか方法がうやむやだったり、生きてる仲間はおバカで頼りない醜い案山子だけでその上そいつはドロシーを「ママ」と呼ぶ(自分が知らない男に母親呼ばわりされて甘えられているようで幼心ながらに危険な倒錯を感じて気持ち悪かった)、後味の悪い悪夢みたいだった。でもこれを見ないと感じ得ない、なんともいえない気持ち悪さを残されるのが癖になったのかもしれない。

 同時期に見た、悪夢のようなファンタジー映画から受けた影響が、今も強く残っている。「ダーク・クリスタル」「ラビリンス」「ビートル・ジュース」「バロン」「ストーリーテラー」「アメージングストーリー」、主人公もおろかだったり頼りなかったりして、なにが正義なのかも分からないまま冒険が進み膨らむ不安と期待。想像を絶する怪物やら幽霊やらが現れ絵本のように完璧な、豪華な世界が広がる。目は喜んでいるけど同時にその完璧すぎる、現実とは全くかけ離れたビジョンに恐怖を感じていた。スペシャル・エフェクツの映画。

あるヨーロッパのドローイング・アニメーターが、手書きアニメとCGの違いについて聞かれて
「CGは、CGを使っているというその時点で、表現できることは無限であるように思われながら、質感を『本物っぽく』見せたがっているというその真意や手段を観客にも見透かされ、限定された感覚で捉えられてしまう。ドローイングは最初は2次元だと思われていても、その狭い限界の中で発想がどこまで展開するか奥行きや連続性を無限に追求することができる。」
と確か言っていた。上手くメモをとれず、伝えたいことの半分しかかけていない気がする。これは安易なCG批判というわけでもなく(工夫して、そのCG然とした分かりやすさを敢えて生かしている作品だってあるから)、ただわたしも確実さ・安心よりも、怖いけれどそういう、無限の未知なるものに、今も期待し続けてしまう、ということが言いたかっただけの引用。

昔見たものは案外ちゃちかったりもするが、フィクションはフィクションなんだ、それを分かってしまった現在わざわざそれを言及する必要はなく、何をどういう世界をみせたいのか、その勢いがすごいものにビビっとくる。ああ心を閉ざしている暇はないですね、はい、楽しいことを探す。